そんな日々の中で、ぼくたちが息抜きのように通った店、それが「クラシック」だ。
JR中野駅を北口に出て、サンモール商店街を抜け、中野ブロードウェイにはいる直前のわき道を左に折れると、その店はある。
ずいぶんくたびれた感じのドアを押すと、店内はいきなり真っ暗だ。しばらくして目が慣れてくると、そこにおじさんが立っていることに不意に気づく。つまりマスターだ。
そこでぼくらはチケットを買う。50年つづいた由緒あるコーヒーはまずくて飲めたものじゃない。オレンジジュースはなんだか薬臭い。唯一飲めるのは紅茶だ。メニューはこれだけなので、ぼくはいつも消去法で紅茶を選ぶ。
先にチケットを買い終わった奴は、横のリクエスト黒板になにやら書いている。階段に向かいながらひょいと見ると、汚い字で「パッヘルベルのカノン」と書いてあった。
薄暗い階段を登り、屋根裏とも物置とも判別しがたい2階に上がる。
目を凝らせば、あちこちにひそむ黒っぽい人影。埃をかぶったランプを通して壁に浮かび上がるシルエット。
あらゆる方向に傾斜した床を注意深く踏みしめながら、やっとの思いで空いた席に腰をおろす。
やがて運ばれてくる紅茶は、脇にマヨネーズか何かのキャップを従えている。覗いて見れば、中にはミルクがはいっているようだった。
「クラシック」に行くとどちらかが黒板に「パッヘルベルのカノン」と書いた。
もとより他にクラシックの曲など知る素養もなく、ぼくたちはパッヘルベルのカノンを聞くためにだけ、もしくはパッヘルベルのカノンをBGMにその店を味わうためにだけそこに通っていた。
時代は80年代中盤。街ではDCブランドが全盛を極め、やがてそれに続くバブル景気に向かって、祝祭の気分が人々の心を覆い尽くそうとしていた。