昼休み。信号待ちの交差点。
見るともなしに立ち並ぶ建築群を見上げながら、ぼくはふと考える。
今は会社の昼休みで、ぼくは用件を済ませるために銀行に行き、その帰り道でこうして信号を待っている。
それらの事象をひとつながりの文脈に織り上げているのは、記憶の作用だ。
意識とはしょせん世界に対する受容の別名にすぎず、世界の変化を映す鏡のようなものでしかない。放っておけばバラバラの場面に分解していこうとする意識を、記憶こそがひとつの時間軸へと繋ぎとめている。
その作用がもしなくなってしまったら、とぼくはおそろしいことを考えはじめる。瀬戸内海のとある都市で生まれたぼくが、突然なんの前後関係もなくこの場所に立っていることに気づいたとしたら、そのぼくの目にこの風景はどう映るだろうかと。
場所についての手掛かりならすぐに見つかる。
その通りの名は靖国通り。
右へ行けば市ヶ谷、左へ行けば九段下から神保町へ。交通標識がそう教えてくれる。
少なくとも、今ぼくが立っているのが東京都心のとある交差点だということはすぐにわかる。
だがそれはずいぶん奇妙な感覚だ。
どうやってここにたどり着いたのだろう。何故ここに来ようと思ったのだろうか。そしてここで何をやっているのだろうか。
(記憶を失くした人は、やはりこんな風に感じるのだろう)
考えてみたら、ぼくたちは自分で選択しながら人生を歩いているようで、実際には一方通行のランダムな連鎖を手繰りながら、ずいぶん行き当たりばったりに生きている。
だって、いったいどこをどう繋いだら、瀬戸内海の港をはなれるあの連絡船(その頃はまだ連絡船だった‥)のデッキから、靖国通りのこの交差点にたどり着くというのだろう。
ともあれ、そのときぼくの目に映る風景はもはや見馴れた風景ではないだろう。いつもの風景がいつものようには脳裏に届かず、同じ建築がまったく新しい相貌をもって視界を遮ってくる。
(もちろん本当に記憶を失ってしまったとしたら、それは恐ろしい光景で、とてもそんな悠長な感想を抱いてはいられないだろうが)。
それは世界の破れ目だ。
「マトリックス」のヴァーチャルリアリティが崩れたとき、ネオたちが見たのが巨大な保育器に繋がれた人類の姿であったように。ぼくたちはこうして、ありふれた日常の路地から時折世界の破れ目へと迷い込む。
なるほどぼくたちがいつも見ている(つもりの)風景は、ぼくたちの脳が創り出したヴァーチャルリアリティにちがいない。実際ぼくたちの網膜は世界の完全な像を映し出しているわけではない。ちょうどテレビの映像が一秒に何十本と送り出される走査線による残像を利用しているように、ぼくたちが見ている風景は脳によってその多くを補われ、補正されている。
その補正がほんの少し途切れたりズレたりしたとき、ぼくたちは日常の風景の中に何か見馴れないものを見つける。
かたわらを一陣の風が吹き抜け、リアルな風景が瓦解して、見たこともない新しい世界がほんの一瞬眼前に現れる。
唐十郎が彼のテント芝居の最後に、いつも天幕をはねあげて見馴れた外界の風景をそこに現出させてみせるのとちょうど反対の具合に。
もちろん、やがて信号が変わればまた人々が歩き出し、ぼくは横断歩道を渡って会社への道を戻る。まるで何事もなかったかのように(いや実際何もなかったのだが)。たった今出現した奇妙な世界の残像をもう一度探すかのように、訝るように振り返りながら。