「編集室を作ろう!」
それを言ったのは多分、いつも斬新でちょっと突飛なアイデアを出してくるFだった。
1990年、「こむ」10号のアイデア会議の最中の話だ。
FとSとぼくの3人はその足で高田馬場の不動産屋さんに向かう。
即決。地下鉄早稲田駅から夏目坂を登って10分ほど歩いたところにあるアパートが、こむ10号の編集室となる。
ぼくたちの週末は、それからしばらくの間部屋の備品を揃えるのに費やされる。
広島の大学院に行っているTが、研究室で要らなくなったスチール棚を送ってくれた。扇風機は近所のディスカウントショップで調達した。照明器具は、Yが買ったばかりの新品を「デザインが気に入らないから」と提供してくれた。
やがて部屋は部屋らしくなり(Fは寝具一式も揃えようと言ったのだが、それは残りの二人が思いとどまらせた)、毎週末のようにぼくたちはその部屋に集まるようになる。
全員が怠惰なので、やってくるのは正午をとうに回った2時頃だ。三々五々、近所のモスバーガーあたりで買ったハンバーガーや何かを持参でやって来ては、雑談しながらランチタイムとなる。
食べ終わると、だいたい誰かが眠くなる。
起きるともう夕方だ(笑)。
「そろそろ帰るか」
と言いながら、Fが立ち上がる。
「そうだな」と言いながら、ぼくも立ち上がる。
一番まともなSが「おいおい」と言いながら、やっぱり立ち上がる。
そんな具合で、恐ろしく無駄な時間をぼくたちはその部屋で過ごしていた。
そう言えば、毎月発生する家賃などはどうしたのだろう。
これも確かFのアイデアで、月一口千円くらいで各地に散らばっているメンバーから徴収していたような気がする。
地方に住んでいるメンバーには、上京した時の宿にもなる(と言っても寝具はないのだが...)とか何とかデタラメを言って言いくるめた。
専用の銀行口座もつくった(これは当時一流銀行のスチャラカ社員だったFが引き受けた)。もっとも、実際には毎月決まった額が振り込まれることは少なく、大抵は言いだしっぺの3人が穴埋めをしていた。
半年ばかりもそんな怠惰な編集活動(?)を続けた後、さすがのぼくたちも昼寝の時間を短縮して、編集会議らしい会話をするようになる。
ちょうど原稿も各地からポツポツと集まりはじめていた。
Sとぼくがそれぞれワープロを持ち寄り、原稿をデータ化していく。
Fが横で寝そべってぼくらの作業を眺めながら、いろいろと注文をつける。
役割はいつもだいたい決まっていた。Fが突飛なアイデアを出し、それをぼくが面白がって具体化する。いちばんまともなSが定着させる。
そうしたかたちでいろんなアイデアが実行に移された。版型はそれまでのB5判をやめてA4判に。ページは縦ではなく横型にして、見開きごとに本文と写真を対向で入れていく。
写真の多くは、三人で早稲田から神楽坂へ歩きながら、高校時代写真部だったSにここだと思う場所を撮ってもらった。
雨の後のブランコ。夕空を鋭角に切り取る建築。廃屋のガスメータ…。
だから、「こむ」10号はSの写真作品集としても鑑賞できるようになっている。
表紙に使う紙は、9号と同様銀座の伊東屋に行って三人で調達して来る。本文は、早稲田近辺の安いコピー屋さんに行って三人でコピーする。
すべての作業を、毎週末のようにその部屋に集まっては三人でこなしていった。
ところで、こむ10号が完成してからも、ぼくたちはしばらくその部屋を借りたままにしていた。
しかし、10号完成から半年ばかり経った頃、ぼくは急に結婚することになる。
結婚には何かと金がかかる。ぼくたちはアパートを引き払うことを決め、その部屋に集まって相談した。
それぞれが立て替えていた金を精算し、備品もそれぞれ始末をつけた。スチール棚は同じアパートの住人に引き取ってもらうことになり、照明器具はぼくが引き取ることになる。扇風機は…忘れた。ちなみにこの時引き取った照明器具は、今も我が家の寝室を明るく照らしている。
こうして、「こむ」の隠れ家は消滅し、「こむ」ペーパー版の制作も10号をもって最後となる。
その後ホームページの流行とともにぼくたちはバーチャル版「こむ」をスタートするのだが、それはもう少し先のお話になる。