大学2年の夏。
東京ではじと~っと肌にまつわりついてくる暑さが、瀬戸内海沿岸のこの町では直接に肌を焼くように迫ってくる。
夏休みで帰省中のぼくは、FやTと県庁通りをぶらぶら歩いている。Tが言う。
「例の話、どうなんだよ」
「え?」
「ほら、この間の手紙に書いただろう?ちょっとまじめに考えてくれよな」
ああ、その話。
そう、その話は確かに東京で受け取った奴からの手紙の中に書いてあった。
高校時代ぼくが主宰者として作っていた雑誌を、また出さないかというお誘いだ。
だがぼくはどうも気乗りがしていない。
当時朝日新聞シンパだったぼくは、ある日の記事にあった「この頃若い世代の間でコミュニケーションが希薄になっている」という言葉にインスパイアされてしまった。
「何かしなきゃ」(笑)という訳で、早速「我らの世代のコミュニケーションを活性化する」ことを目的とした雑誌を創刊することにしたのだ。その名も「コミュニケーション」(笑)。
ではどうコミュニケーションを活性化させるかというと、そんな方法論はまるでなくただメンバーが好きなことを好き勝手に書くという、まったく今考えれば笑止千万な雑誌だった。
それでも、高校2年の秋からはじめて浪人時代まで、周囲のいろんな人を巻き込んで、全部で10号くらいは出しただろうか。
TもFもそのメンバーだった。
その雑誌をまた作ろうというのだが、ぼくはどうも気乗りがしない。
一度区切りをつけたものをもう1回引っ張り出してくるのはどうも、というのがその表向きの理由だ。
しかし後から考えてみれば、東京での大学生活の中で、ぼくはスタンスを見失っていたのかもしれない。
都会には、個性豊かな奴がいっぱいいた。とりわけ早稲田の文学部というところは、個性的(訳がわからない、とも言う)な奴らが集まっているところだった。
そんな中で、ぼくは溶けたバターのように輪郭をなくしていた。
「俺じゃなくたっていいんじゃないの」
渋るぼくに、今度はFが言う。
「お前がやらんかったら、誰がやるんや」
その言葉はちょっと効いた。
そうか。そこまで言ってくれるなら、もう1回何かやってみるかなと思ったのは、奴らと別れて家路に着いたときだ。
それから数日後、ぼくは「第1回編集会議」と称して、先輩から後輩まで帰省中のめぼしい人たちを呼び集める。どうせやるなら新しい形で、という訳だ。もちろん、FもTもその中にいる。場所は、2階に貸切りにできる広い部屋のある喫茶店だ(以後、その町にいる限り、編集会議は常にその店で行われることになる)。
そこでおおよその段取りをつけたぼくは東京に戻る。
そして秋のある日、ぼくは友人のYと高田馬場の喫茶店の一角に陣取っている。ぼくたちの前には、何やらいろんな文字を書き殴った1枚の紙が置いてある。
ぼくたちは新しい雑誌の名前を考えているところだ。
考えてみると、Yは後にも先にもぼくが作る雑誌のメンバーになったことはないのだが、何故彼がその時ぼくの前にいて、ぼくと一緒に新しい雑誌の名前を考えていたのか、今となってはよくわからない。
ともかく二人で思いつく単語を片っ端から紙の上に書きつけていく。レモンスカッシュとアイスティーをお代わりしながら。
書いた文字を眺めながら、さらに連想した単語を隙間に書き並べていく(これがブレーンストーミングという手法であるとは当時のぼくたちはまったく知らない)。
そのうちに、「こむ」という単語が、どちらからともなくポコッと出てくる。
何となくその言葉がぼくの脳細胞に入り込んでくる。どことなくとぼけた、意味があるようでいて、その実意味のまったくないその言葉が、いっぱい書き殴った言葉の中で何か特別なものに見えてくる。
そうして、それが新しい雑誌の名前となっていた。