1997年2月7日金曜日

北京の雪(Chapter6 / Shanghai, Nov.1994)


それから上海でぼくらがすごした数日間は幻想のようだった。


第一百貨店のあたりでタクシーを下り、上海最大の繁華街南京東路を20分ばかり歩いて抜けると、黄浦江にぶつかるあたりにジャズバーで有名な和平飯店がある。かつてはキャセイホテルとして知られたその古いホテルで、ぼくとZは他の仲間たちと待ち合わせていた。


南京東路には、もはや90年代の東京にはない熱気があふれていた。

日本に比べればまだすこし暗いとはいえ明々と電気のついたショーウィンドウにはベネトンやシャネルの名前が(漢字で)並び、ぼくらと全く同じファッションに身を包んだ大勢の中国人が行き来していた。日曜日の銀座や新宿をはるかに超える人ごみとそこから発せられる喧騒からは、21世紀をリードする超大国の姿が透かし見えるようだった。


そして和平飯店。

大勢の西洋人と大勢の日本人と煙草の煙と、そして今世紀前半にさかのぼる歴史が、そのロビーには満ちていた。1時間ほど待ちぼうけを食らった後、ようやく出会えたぼくらは近くのレストランで食事をし、そして灯火のすっかり減った夜の上海の裏通りをそぞろ歩いた。

本当はO氏が和平飯店のジャズを聞きにいきたいという話だったのだが、何かの理由でぼくらはそこに入れなかったのだ。そんな訳で夜の上海を、錦江飯店最上階のバーから香格里拉酒店(シャングリラホテル)のカラオケスナックへとぼくらは流れた。


ぼくはその夜中国語の美しい歌をいくつか覚え、また同時に日本のポップスの多くが中国語に移し替えられてこの国で歌われていることを知った。

しかし何よりもぼくが驚かされたのは歌の中で聞く中国語の美しさだった。会話の中で聞くかぎりは、まったく騒々しい言語なのに、メロディに乗って歌われた瞬間それは哀調を帯びた表情豊かな響きに変わるのだ。

それは決して中国の歌に特有のどこか哀しいメロディのせいだけではないだろう。その証拠に、近藤真彦の「夕焼けの歌」の中国語バージョンをZが歌うとき、それは僕たち日本人の誰もを黙らせるほど美しい曲となるのだ(そして、彼女の歌もまたとてもうまかった)。


共産主義とヨーロッパ文明の残り香と日本軍の足跡と、そして改革開放路線のすさまじい経済発展の狭間を、Zの美しい歌声が流れ、異国の夜が更けていった。