1997年2月4日火曜日

北京の雪(Chapter3 / Tokyo, Aug.1994)

ファミリーカーシンポジウムについてのオリエンテーションは、夏の暑い日、東京・飯田橋にあるトヨタ自動車東京本社の5F会議室で行われた。

それは、ちょうどぼくが妻の妊娠を知った頃だった。


実のところそれは、ぼくにとってもぼくの会社にとってもまったくはじめての種類の仕事だった。その辺の事情を理解してもらうためには、まず広告代理店の仕事と組織を説明しなければならないだろう。


一般に広告代理店では、営業が仕事を獲得すると、スタッフ部門の各部署から人材を集めてきて、プロジェクトチームを作る。

チームの中では、まずマーケティング部門が市場調査やそれを踏まえた戦略プランの立案を行う。それを受けて、媒体部門はメディアの買い付けを、クリエイティブ部門はTVCFや新聞広告などの表現制作を、SP(セールスプロモーション)部門はイベントや店頭販促活動などの実施計画の立案を行う。

今回のようなコンベンションの場合は、営業とSP局が軸になり、マーケティング部門とクリエイティブ部門は必要があればそれを支援するというレベルだ。したがって、マーケティングプランナーという立場にあるぼくは、大方針さえ決まればあとはお役御免だろうと割合かんたんに考えていた。


だが、はたしてこの仕事はそうはならなかった。

ぼくたちには一般向けのイベントやインナー向けの発表会に関する豊富な経験はあったが、外国の政府に対するプレゼンテーションなど請け負った経験があるものは誰もいなかった。そこからすべての混乱と試行錯誤がはじまった。


オリエンテーションの時点で本番まで3ヶ月ちょっと。切迫する時間と経験の乏しさから、ぼくらは通常の役割分担に関係なく、目の前に次々と現れるハードルをクリアしていかざるを得なくなっていった。

気がつくとぼくはトヨタの役員スピーチ用のスライド原稿を書いていたり、展示用映像のナレーション案をひねり出していたり、パネルのレイアウトに頭を悩ませたりしていた。

それは従来の仕事の仕方から言えばきわめて特殊なことだったし、タイトなスケジュールの中では非常にきつい仕事でもあった。仕事は毎日深夜までの作業となり、休日も急速に仕事で埋まるようになっていった。

それでもその仕事は非常に楽しく、充実感のある仕事でもあったのだ。もともとぼくは自分の手で何かを生み出すということが好きだったし、企画書だけを書き続けていたそれまでの仕事から見て、実際の作品を(たとえ一部であっても)自分の手で作っていけるというのはとても刺激的なことだった。


そうこうするうちにぼくは、現地まで行くはめになっていた。