1997年2月2日日曜日

北京の雪(Chapter1 / Beijing, Nov.1994)


北京市内はいつのまにか雪が降りだしていた。


すでに暗くなったドライブウェイには一台もタクシーの姿はない。長い重そうなコートを着た中国人のドアボーイがダメだというように手を振る。

待っていても新しいタクシーが入ってくる気配はない。

背の高い白人の集団が回転ドアから出てくると、ドアボーイにひと言ふた言話しかける。ドアボーイがぼくにしたと同じように手を降ると、白人たちは肩をすくめバラバラとホテルの外へ駆け出していく。

ぼくは腕時計を見た。急いで北京市内のもうひとつのホテルまで行き、荷物を拾ってもう一度ここまで戻って来なくてはならない。

ホテルの外は暗く、そしてひどく寒そうだった。


1994年11月13日。

それはその冬北京市に降ったはじめての雪だった。そしてその雪は、翌日からはじまる一大イベントのために世界中から集まってきていた主要な自動車メーカーの関係者すべての頭上に、等しく降り積もろうとしていた。

中国政府は、国内自動車産業の保護育成の観点から外国自動車メーカーの参入を厳しく制限していた。一方で、地球上に残された最後のビッグマーケットを何としてでも手中にしようと、世界中の自動車メーカーが虎視眈々と参入機会をうかがっていた。

そしてこの年、中国政府はこれらの自動車メーカーを北京に呼び集め、将来の中国に相応しいファミリーカーについて提言させることを思いついた。よい提言を行ったメーカーにはチャンスが与えられるかもしれない。そんな思惑から、世界中の主要自動車メーカーにとって「ファミリーカー・シンポジウム」と名付けられたこのイベントは必ずくぐらなければならない関門のひとつとなっていた。


ぼくは、というよりぼくの会社は、そのシンポジウムの中でトヨタ自動車のプレゼンテーションと展示のすべてを請け負っていた。プランナーとしてその仕事にどっぷりつかることになったぼくは、数カ月にわたる準備期間の後、最後のリハーサルと本番を見届けるためにこの国に来ていた。


それにしても、この国では流しのタクシーというのは拾えるものなのだろうか。

ホテルに近い場所ではすでに何グループかの外国人たちが、タクシーをつかまえようと手を挙げている。ぼくは思い切って外の大通りへと出ていくことにした。

明らかに電力量の足りない首都のぼんやりした街灯が、決して多くはない車の流れを浮かび上がらせている。雪はぼたん雪となって、激しく降り出していた。

空車のタクシーを見つけて手を挙げると、赤いシャレードの車体がスーッとぼくの傍に滑り込んでくる。ぼくはメモ帳を取り出すと、「京広中心」と漢字で書いたページを指さした…。