1
高校3年の春、国立大学の2次試験を終え、発表を待つ間友人のTとあちこちに遠出した。
琴平へ行ったときのことだ。
ぼくたちは1人のおばあさんと友だちになった。
午後琴平に着き、まるまる6時間近く象頭山をさまよった後、ぼくたちは疲れた足取りで夜7時前の列車に乗りこんだのだった。
高松に戻る列車には多度津で乗り換えなければならなかった。
その30分程の待ち時間を、ぼくたちは寂しいホームの待合室で過ごした。そこにはぼくたちの他に4、5人の待ち人たちが宿っていた。
やがてトイレに行くと言って出ていったTは、それきりなかなか帰ってこない。ぼくはポテトチップスを齧りながら、トインビーの『文明論』を読んでいた。人びとのおしゃべりを聞くともなく聞きながら。
あと5分程で列車が到着するという頃になって、やっとTが帰ってきた。聞けば、ホームで会ったおばあさんと話しこんでいたという。
そう言えば、善通寺から乗りこんできたおばあさんがいた。2つ向こうの座席に1人で腰掛けて、時折じっとぼくの方を見つめていた。足が悪いらしく、多度津で乗り換えるとき車掌さんに助けてもらっていた。きっとあのおばあさんだろう。
やがて列車がホームに入ってくると、ぼくたちはトインビーとポテトチップスを片付け、他の客たちも腰をあげた。
昇降口のところで、そのおばあさんと一緒になった。
ホームと昇降口の間には随分大きな段差がある。彼女は、ぼくたちの支えでどうにか列車に乗りこむことができた。
2
ゴトリ、と一度体を震わせると列車は動きだす。窓の外には真っ暗な景色が広がる。
彼女は善通寺に住んでいるということだった。何やら付添い看護婦のような仕事で、これから大阪へ行くのだという。
ぼくたちの顔を交互に見比べながら、彼女は「大学生ですか?」と聞く。
今年大学を受験したのだが、発表までの間こうしてブラブラと遊び回っているのだとぼくたちは答える。
はじめのうち途絶えがちだった会話は、しだいに密になっていった。時折無表情な目つきになって、じっと宙を見据えるように考えながら話すのが癖のようだった。
彼女の人生は決して幸福な、落ちついたものではなかったようだった。2度の離婚、高松での交通事故、そのときに腰を傷めたのだという。そして、今は1人で善通寺の市営アパートに住んでいる。
それは、高校を出たばかりのぼくたちにとって実感からは遠いものだった。たった今目の前に座っているこのおばあさんが、ぼくたちとはまるで異質な人生を送ってきたということに、戸惑いを覚えずにはいられなかった。
それから彼女は、愚痴るように生活の苦労を語りはじめた。
列車は相変わらず闇の中をガタゴトと走りつづけている。客室内は他に物音もなく、黙ったまま窓の外を眺めている乗客たちは、彼女の声にじっと耳を傾けているようだった。
彼女の話し振りには、愚痴のいやらしさは感じられなかった。ぼくたちは知らず知らず彼女の話に引き込まれ、一生懸命になって聞いていたのだった。夜汽車の窓は、そんな様子を静かに映し出していた。
彼女はつくづくとぼくたちを見比べながら言う。
「私はもうこんなに年をとってしまったけれど、あなたがたはまだお若いんだから、一生懸命に頑張って幸福になってくださいよ」と。
3
と彼女がつぶやく。「またお会いしたいですねえ」
とぼくたちは弾んで答える。「ええ、必ず会いましょうよ」
「夏休みになったら、2人で善通寺へ訪ねて行きますから」
そしてぼくたちは互いに住所と電話番号を教えあうことになった。けれど困ったことに3人とも筆記用具を持っていないのだった。
そのときだった。
通路の向こう側に座っていた若い男性が、そっとぼくの肩を叩いた。
「俺の鞄に万年筆がはいってるから」
そして立ち上がると、網棚の鞄から万年筆を取り出して渡してくれた。ぼくは礼を言うと、たまたま財布の中でくしゃくしゃになっていたレシートに電話番号を書きつけた。大きな字で書かないと、彼女の目には読めないようだった。
Tとおばあさんも次々に書いた。
「合格発表はいつでしたっけ」
彼女はぼくたちの書いた2枚のレシートを大事そうにしまうと、そう聞いた。
「発表の日には必ずお電話しますからね。ぜひ受かってくださいねえ」
それから彼女はため息をつくと、
「またお会いしたいですねえ」と何度も繰り返した。
4
高松駅前のスクランブル交差点を渡ったところで、ぼくたちは別れた。
彼女はこれからフェリーで大阪へ向かうのだ。
「それじゃお元気で」
ぼくたちは手を振ると、背中を向け歩きはじめた。
少し歩いたところで振り返ると、彼女はまだそこに立ってぼくたちに手を振っていた。すこし嬉しくなって、ぼくたちも大きく手を振り返した。しばらくの間はそうやって手を振りながら後ろ向きに歩いた。
もういいだろうと再び背を向けたぼくが最後に振り返ったのは、100メートル程も歩いた頃だった。彼女はまだ同じ場所に立っていた。
いくつかの人影の向こうに彼女の小さな姿が見え隠れしていた。まだ手を振っているのかどうかはもう判別できなかったが、きっと今でも手を振りつづけているに違いなかった。もうたぶん見えないはずのぼくたちに向かって、彼女はずっと手を振りつづけているに違いなかった…。