tag:blogger.com,1999:blog-19426525858367660102024-03-19T21:06:01.067+09:00ささやかな地異はRYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comBlogger30125tag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-63452397219402143272014-07-26T16:37:00.001+09:002017-03-11T23:19:51.919+09:00蝉時雨、交差点<p>夏の日。</p>
<br />
<p>いつものように、ぼくは九段坂上の交差点で信号を待っている。</p>
<p>靖国通りに内堀通りがTの字にぶつかるその交差点は、複雑に信号が入れ替わるせいか待ち時間が長い。通りに沿ってこんもりと茂る神社の杜から、降るような蝉の声。</p>
<br />
<p>信号が変わる。内堀通りからクルマの列が斜めに交差点に進入してくる。</p>
<p>ふと、最近立て続けに読んだ小説-- 戦後を舞台にした-- のいくつかが脳裏に浮かぶ。建物は今よりずっと低く、みすぼらしく、クルマも今よりずっと少なく、オンボロだったのだろう。人々のファッションもたぶん今より冴えないが、それでも白いワイシャツのビジネスマンが夏空を見上げて額の汗を拭う仕草は今と変わらなかったかもしれない。</p>
<br />
<p>ふいにクルマの音や人々の声が途絶え、ただ音も色もなくしたクルマの列だけが流れていく錯覚にとらわれる。</p>
<p>蝉時雨はたしかに轟然と降り続いているのだが、それは通奏低音のように背景に遠ざかって、無音の中をただ無彩色の人々の営みだけが続いていく。</p>
<p>60年前も、たぶん600年前も変わらないように、樹々は立ち続け、蝉の声は降りしきり、夏空はまぶしく輝きつづける。</p>
<br />
<br />
<p>信号の</p>
<p>青になりまた青になり</p>
<p>とこしへに</p>
<p>ふる 蝉の声かな</p>
<br><div class="separator" style="clear: both;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiB0gZLfQ9cwmUHIEQHilFltD_zptwa70ldu2Dh6CX7HWTCKCi4IVRutmIR07trf1kWPM3Ek42zC4CD09tc5oyDD0TOUc0x7hkrro7ABWQ3479GVPZA1HeBv5157vDUni-wE1YPpC4WriA/s640/blogger-image--649869204.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiB0gZLfQ9cwmUHIEQHilFltD_zptwa70ldu2Dh6CX7HWTCKCi4IVRutmIR07trf1kWPM3Ek42zC4CD09tc5oyDD0TOUc0x7hkrro7ABWQ3479GVPZA1HeBv5157vDUni-wE1YPpC4WriA/s640/blogger-image--649869204.jpg"></a></div>RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-8228031679594070542011-09-06T22:24:00.003+09:002015-02-05T19:25:55.243+09:00夏が逝く<p>雨に濡れたキャンプ場は、さながら廃墟のようだった。</p>
<br />
<p>ぼくは傘をさし、(昨晩はせせらぎだった)濁流のほとりで廃墟の風景を見ている。</p>
<p>今朝早くに降りだした雨は、気がつくとシートを透し、眠っているぼくたちの背中に染みとおりはじめていた。</p>
<p>テントの張り方、というか張る場所に問題があったのだろう。飛び起きてみれば、ぼくたちは雨がにわかに作りだした水たまりの上に寝ていたのだった・・・。</p>
<br />
<p>雨の中をやはり傘をさしてもうひとつの影がやってくる。</p>
<p>彼女は傘の中から顔を上げると、いつものように照れくさそうに「朝ご飯どうする?」と聞いた。</p>
<br />
<br />
<p>高校2年だった。</p>
<p>誰がはじめに言い出したのか、讃岐山脈の中腹にある県営のキャンプ地に行こうという話になった。</p>
<p>メンバーはその頃同じ部活に所属していた友人と後輩の数名。</p/>
<p>高校生だけでは許可が下りないというので、誰かの叔父さん(だったか恩師だったか)にアテンドしてもらった。</p>
<br />
<p>真夏の空の下、森の中ではすでにヒグラシが鳴いていた。カナカナと</p>
<p>高いところで。</p>
<p>蒼い風が吹き、彼女たちの笑い声が山じゅうに谺していた。</p>
<p>流れをまたぎ、薪を集めたりするうち、山の一日は早々と暮れていった。</p>
<br />
<p>食事のあと、ぼくたちはキャンプファイヤーを囲み、ぼくはいつものようにギターを弾いた。</p>
<p>指の間からこぼれる弦の音はぼくたちの間を縫い、歌声は白い煙となって星空に昇っていった(宴は深夜まで続いた)。</p>
<p>やがて気がつけば、ひとつの歌が終わったあとの余韻の中で、</p>
<p>誰もが一様に残り火の炎を見つめていた。</p>
<br />
<p>燃え尽きた薪が、コトリと崩れ、</p>
<p>彼女がぼくの方をみて笑った。</p>
<br />
<br />
<p>一晩あけると、雨が、すべてを濡らすように降りそぼっていた。</p>
<p>ぼくは彼女と傘を並べながら、散文的な気分のまま黙ってみんなのいる場所まで戻った。</p>
<br />
<p>テントの中に置き去られた誰かのラジオから、ふと中村雅俊の『盆帰り』の曲が聞こえてきた。</p>
<blockquote>
<p>せせらぎに素足で水をはねた</p>
<p>夕暮れの丘で星を数えた</p>
<p>突然の雨を木陰に逃げた</p>
<p>故郷の君の姿 ぬぐいきれないと知りながら</p>
</blockquote>
<p>あとから思えば、その歌はまるでそのときのぼくたち自身であり、いま思い返すぼくたちの姿そのものだった。</p>
<p>ふるさとはすでに遠く、あのとき空を覆っていた雨の色といっそう濃かった森の色もまた、遠い時の彼方にある。</p>
<br />
<br />
<p>30年前の夏。</p>
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-56205509173377718332011-06-19T00:49:00.003+09:002015-02-05T19:30:00.146+09:00後悔の情景<p>どんなぼくの言葉が引き金になったのか、それはもう覚えていない。</p>
<br />
<p>あの時、悲しそうに立ちどまりぼくを見る彼女の姿が仲間たちの列からあっという間に遅れ、取り残されていった。</p>
<p>それにもかまわずぼくは歩いていった…。</p>
<br />
<p>当時の日記を読み返すと、その夜の後もぼくたちは一緒に出かけているから、どこかの時点で仲直りしたのかもしれない。</p>
<p>ただ、あの時の光景だけが、20年以上たった今も時折脳裏に甦る。</p>
<br />
<p>まるであれきり会うことがなかった人との後悔の情景のように。</p>
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-31899975466384972442009-06-15T23:54:00.004+09:002015-02-04T20:03:14.876+09:00時間を失くした交差点<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhDngHchuGNlsfAd02bnePg2wX-7Cj5eaNQPCsoYc-ufwCRS9_2Q9_O8Bz0LLixVTYlrdNq4bTZyUb5YbMxiMYkYoVPqJyLx7JmW_BkFwSgDuyt57CFrOAEnoAaVyAQAiQYTv6Do8M4xKU/s1600/IMG_20111213_125341.jpg" imageanchor="1" style="clear:left; float:left;margin-right:1em; margin-bottom:1em"><img border="0" height="240" width="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhDngHchuGNlsfAd02bnePg2wX-7Cj5eaNQPCsoYc-ufwCRS9_2Q9_O8Bz0LLixVTYlrdNq4bTZyUb5YbMxiMYkYoVPqJyLx7JmW_BkFwSgDuyt57CFrOAEnoAaVyAQAiQYTv6Do8M4xKU/s320/IMG_20111213_125341.jpg" /></a></div><div style="clear: left"></div><br />
<p>昼休み。信号待ちの交差点。</p>
<p>見るともなしに立ち並ぶ建築群を見上げながら、ぼくはふと考える。</p>
<br />
<p>今は会社の昼休みで、ぼくは用件を済ませるために銀行に行き、その帰り道でこうして信号を待っている。</p>
<p>それらの事象をひとつながりの文脈に織り上げているのは、記憶の作用だ。</p>
<p>意識とはしょせん世界に対する受容の別名にすぎず、世界の変化を映す鏡のようなものでしかない。放っておけばバラバラの場面に分解していこうとする意識を、記憶こそがひとつの時間軸へと繋ぎとめている。</p>
<br />
<p>その作用がもしなくなってしまったら、とぼくはおそろしいことを考えはじめる。瀬戸内海のとある都市で生まれたぼくが、突然なんの前後関係もなくこの場所に立っていることに気づいたとしたら、そのぼくの目にこの風景はどう映るだろうかと。</p>
<br />
<p>場所についての手掛かりならすぐに見つかる。</p>
<p>その通りの名は靖国通り。</p>
<p>右へ行けば市ヶ谷、左へ行けば九段下から神保町へ。交通標識がそう教えてくれる。</p>
<p>少なくとも、今ぼくが立っているのが東京都心のとある交差点だということはすぐにわかる。</p>
<br />
<p>だがそれはずいぶん奇妙な感覚だ。</p>
<p>どうやってここにたどり着いたのだろう。何故ここに来ようと思ったのだろうか。そしてここで何をやっているのだろうか。</p>
<p>(記憶を失くした人は、やはりこんな風に感じるのだろう)</p>
<br />
<p>考えてみたら、ぼくたちは自分で選択しながら人生を歩いているようで、実際には一方通行のランダムな連鎖を手繰りながら、ずいぶん行き当たりばったりに生きている。</p>
<p>だって、いったいどこをどう繋いだら、瀬戸内海の港をはなれるあの連絡船(その頃はまだ連絡船だった‥)のデッキから、靖国通りのこの交差点にたどり着くというのだろう。</p>
<br />
<p>ともあれ、そのときぼくの目に映る風景はもはや見馴れた風景ではないだろう。いつもの風景がいつものようには脳裏に届かず、同じ建築がまったく新しい相貌をもって視界を遮ってくる。</p>
<p>(もちろん本当に記憶を失ってしまったとしたら、それは恐ろしい光景で、とてもそんな悠長な感想を抱いてはいられないだろうが)。</p>
<br />
<p>それは世界の破れ目だ。</p>
<p>「マトリックス」のヴァーチャルリアリティが崩れたとき、ネオたちが見たのが巨大な保育器に繋がれた人類の姿であったように。ぼくたちはこうして、ありふれた日常の路地から時折世界の破れ目へと迷い込む。</p>
<br />
<p>なるほどぼくたちがいつも見ている(つもりの)風景は、ぼくたちの脳が創り出したヴァーチャルリアリティにちがいない。実際ぼくたちの網膜は世界の完全な像を映し出しているわけではない。ちょうどテレビの映像が一秒に何十本と送り出される走査線による残像を利用しているように、ぼくたちが見ている風景は脳によってその多くを補われ、補正されている。</p>
<br />
<p>その補正がほんの少し途切れたりズレたりしたとき、ぼくたちは日常の風景の中に何か見馴れないものを見つける。</p>
<p>かたわらを一陣の風が吹き抜け、リアルな風景が瓦解して、見たこともない新しい世界がほんの一瞬眼前に現れる。</p>
<p>唐十郎が彼のテント芝居の最後に、いつも天幕をはねあげて見馴れた外界の風景をそこに現出させてみせるのとちょうど反対の具合に。</p>
<br />
<p>もちろん、やがて信号が変わればまた人々が歩き出し、ぼくは横断歩道を渡って会社への道を戻る。まるで何事もなかったかのように(いや実際何もなかったのだが)。たった今出現した奇妙な世界の残像をもう一度探すかのように、訝るように振り返りながら。</p>
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjBDDN2cgOudatpQ-qgkCw-a3WQluYj2Osw72jxjsn96npaztBPLBcyQLKWtr9zHj7L3-JKG1WPIkTIsowsSNIIL2dmM7YfBS68i7HsyUOdcFoyzJtcB40Q6l5CmSiDcacdj-98ZLi-_U8/s1600/20070608190315.jpg" imageanchor="1" style="clear:left; float:left;margin-right:1em; margin-bottom:1em"><img border="0" height="320" width="240" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjBDDN2cgOudatpQ-qgkCw-a3WQluYj2Osw72jxjsn96npaztBPLBcyQLKWtr9zHj7L3-JKG1WPIkTIsowsSNIIL2dmM7YfBS68i7HsyUOdcFoyzJtcB40Q6l5CmSiDcacdj-98ZLi-_U8/s400/20070608190315.jpg" /></a></div>RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-77911461992781050302006-09-06T23:47:00.003+09:002017-03-11T23:19:34.379+09:00鳥山昌克のこと(5. クラシック)<p>そんな日々の中で、ぼくたちが息抜きのように通った店、それが「クラシック」だ。</p>
<br />
<p>JR中野駅を北口に出て、サンモール商店街を抜け、中野ブロードウェイにはいる直前のわき道を左に折れると、その店はある。</p>
<p>ずいぶんくたびれた感じのドアを押すと、店内はいきなり真っ暗だ。しばらくして目が慣れてくると、そこにおじさんが立っていることに不意に気づく。つまりマスターだ。</p>
<br />
<p>そこでぼくらはチケットを買う。50年つづいた由緒あるコーヒーはまずくて飲めたものじゃない。オレンジジュースはなんだか薬臭い。唯一飲めるのは紅茶だ。メニューはこれだけなので、ぼくはいつも消去法で紅茶を選ぶ。</p>
<p>先にチケットを買い終わった奴は、横のリクエスト黒板になにやら書いている。階段に向かいながらひょいと見ると、汚い字で「パッヘルベルのカノン」と書いてあった。</p>
<br />
<p>薄暗い階段を登り、屋根裏とも物置とも判別しがたい2階に上がる。</p>
<p>目を凝らせば、あちこちにひそむ黒っぽい人影。埃をかぶったランプを通して壁に浮かび上がるシルエット。</p>
<p>あらゆる方向に傾斜した床を注意深く踏みしめながら、やっとの思いで空いた席に腰をおろす。</p>
<p>やがて運ばれてくる紅茶は、脇にマヨネーズか何かのキャップを従えている。覗いて見れば、中にはミルクがはいっているようだった。</p>
<br />
<p>「クラシック」に行くとどちらかが黒板に「パッヘルベルのカノン」と書いた。</p>
<p>もとより他にクラシックの曲など知る素養もなく、ぼくたちはパッヘルベルのカノンを聞くためにだけ、もしくはパッヘルベルのカノンをBGMにその店を味わうためにだけそこに通っていた。</p>
<p>時代は80年代中盤。街ではDCブランドが全盛を極め、やがてそれに続くバブル景気に向かって、祝祭の気分が人々の心を覆い尽くそうとしていた。</p>
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-52272149791753304312006-09-05T23:47:00.003+09:002015-02-11T15:47:43.106+09:00鳥山昌克のこと(4. 麻雀とAKIRAと哲学書)<p>その部屋でぼくたちはいつも麻雀をやっていた。</p>
<p>面子は奴の大学の同級生や奴と同じ下宿の住人だったりした。</p>
<br />
<p>しかし、そういつも面子が揃うわけもないので、やがてぼくたちは二人麻雀のルールを確立する。一定数の牌を最初に取りよけてしまうのだ。</p>
<p>これでいつでも麻雀の真似ごとができる、という訳でぼくたちは明けても暮れても奴の部屋でジャラジャラと牌をかき回していた。</p>
<br />
<p>プレイヤー同士の駆け引きは、人数に対して等比級数的に逆相関するのだろうか、ひとつひとつの場は異常に長く、ぼくたちはやたらと高級な役ばかり狙っていた。</p>
<p>壮大な時間を無駄に過ごしたと思う。しかしそれは産みの苦しみの時間でもあった。</p>
<br />
<p>奴の部屋には、『ねじ式』(つげ義春)や『AKIRA』(大友克洋)に混じって哲学の本がしばしば転がっていた。</p>
<p>麻雀に飽きるとぼくは畳の上に寝転がり、それらの本やマンガをかたっぱしから読んでいった。</p>
<br />
<p>そうした本やマンガをぼくは自分では決して買わなかっただろう。</p>
<p>その頃のぼくはと言えば、抒情フォークサークルに所属していて、さだまさしや立原道造をこよなく愛するような青年だったからだ。</p>
<p>その頃奴の部屋で読んだ本がどこでどう影響したのか、やがて奴が荻窪に越してしまいぼくらが滅多に会わなくなってから、ぼくは現代思想に傾倒するようになる。それはもっとずっと後のことだ。</p>
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-53718348748826515732006-09-04T23:46:00.003+09:002015-02-11T15:47:51.398+09:00鳥山昌克のこと(3. さかさまの二段ベッド)<p>大学にはいって、ぼくたちは生まれ育った地方都市から東京に出てきた。</p>
<p>どこでどう道を誤ったか奴はやがて演劇をはじめ、それとともになんだか急速に哲学的になっていった。</p><br />
<p>ある日奴の部屋に行ってみると、二段ベッドが置いてある。</p>
<p>捨ててあったのを拾ってきたと言う。それはいいのだが、問題はそのベッドがさかさまに置いてあることだ。</p>
<br />
<p>さかさまに置かれたその二段ベッドの上の段、つまり元々は下の段の床板だったところに奴は布団を敷いて寝ていた。</p>
<p>これだと通常の二段ベッドの上段よりもかなり天井に近い位置になる。まだそんな呼び名も生まれていなかったが、ロフトのような感じといえば言える。</p>
<br />
<p>夜も更け、20分の距離を歩いて帰るのも面倒になった日など、奴は自分ではちっともそこに寝ようとはしないくせに、やたらとぼくがそこに寝ることを薦めるのだ。</p>
<p>薦められるまま何度か寝てみたのだが、横たわったすぐ目の前に天井があるという状況はなかなかシュールで哲学的ではあった。</p>
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-82335554017513967762006-09-02T23:45:00.003+09:002015-02-11T15:47:59.711+09:00鳥山昌克のこと(2. 出会い)<p>大学時代。</p>
<p>ぼくらは同じ中野区の、歩いて20分くらいのところに住んでいた。</p>
<br />
<p>授業に行かない日の昼間(それはつまり毎日ということだが)や飲み会のない日の夜(こちらは逆に滅多にない)など、ぼくらはしょっちゅうつるんでいた。</p>
<br />
<p>東中野から大久保通りを歩いて中野北口へ、深夜の山の手通りを歩いて東中野駅近くのモスバーガーへ。また大久保通りからちょっとはいった下宿の奴の部屋へ。それとも中野駅に近いぼくのアパートの部屋へ。</p>
<p>半径ほんの2キロ足らずの円の中で、ぼくらは無為に過ごしていた。</p>
<br />
<p>奴と出会ったのは中学のときだ。</p>
<p>学年が替わってあたらしい教室に入ったとき、出席番号順に座ったぼくのすぐ前の席が奴だった。坊主頭の変な奴がいるなというのが最初の印象だった。</p>
<br />
<p>奴の方も、こいつは変な奴だなと思っていただろう。</p>
<p>その頃ぼくらの歴史の先生は変わった人で、授業の途中に突然「じんむすいぜいあんねいいとくこうしょうこうあん・・・」と歴代天皇の名前を暗唱しはじめるという特技を持っていた。当時ぼくはその先生に妙な対抗心を燃やして、天皇名の暗唱という一大事業に取りくんでいるところだったのだ。</p>
<p>清掃時間の途中に、中庭を箒で掃きながら不意に「じんむすいぜいあんねいいとくこうしょうこうあん・・・」などとつぶやきはじめる奴がいたら、変だと思わない方がおかしい。</p>
<br />
<a class="hatena-fotolife" href="http://f.hatena.ne.jp/moaii/20070102161649" target="_blank"><img alt="f:id:moaii:20070102161649j:image" class="hatena-fotolife" src="http://cdn.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/moaii/20070102/20070102161649.jpg" title="f:id:moaii:20070102161649j:image" /></a>
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-18173807817006557852006-09-02T23:44:00.006+09:002015-02-11T15:48:09.161+09:00鳥山昌克のこと(1. 自室にて)<p>午後10時。部屋のドアを誰かが叩く。</p>
<p>開けると、薄暗い廊下に奴が立っている。</p>
<blockquote>
<p>「土産、持って来たぜ」</p>
</blockquote>
<p>紙袋を差し出しながら、ぼそっと言う。</p>
<blockquote>
<p>「はいれよ」</p>
</blockquote>
<p>心地よい静寂を破られた腹いせに、少しだけ無愛想にぼくはそう言うと、さっさと元の位置に腰をおろす。</p>
<p>四畳半のアパートの部屋の真ん中にコタツが置いてある。ドアに背を向けた場所がぼくの定位置であり、奴はたいていその対面に座った。</p>
<p>コタツの上のスタンドが、ランプのような暖かな光を投げている。ぼくの前には開かれたノートが置いてあり、たった今破られたばかりの落ちついた時間の名残りが、まだその辺に漂っている。</p>
<blockquote>
<p>「クラシックに行ってきたんだ」</p>
</blockquote>
<p>土産といって持ってきた紙袋を自分で破りながら、奴は言う。</p>
<blockquote>
<p>「大判焼きだ。食うだろ?」</p>
</blockquote>
<p>返事をする間もなくひとつ頬張る。</p>
<p>クラシック--。それはその頃ぼくたちが頻繁に通っていた名曲喫茶の名前だった。</p>
<blockquote>
<p>「ああ」</p>
</blockquote>
<p>窓の外は秋の夜。もううるさいくらいに虫が鳴いている。</p>
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-11879144076199085322006-05-21T23:53:00.000+09:002015-02-05T19:32:28.283+09:00「こむ」の隠れ家<blockquote>
「編集室を作ろう!」
</blockquote>
<p>それを言ったのは多分、いつも斬新でちょっと突飛なアイデアを出してくるFだった。</p>
<p>1990年、「こむ」10号のアイデア会議の最中の話だ。</p>
<br />
<p>FとSとぼくの3人はその足で高田馬場の不動産屋さんに向かう。</p>
<p>即決。地下鉄早稲田駅から夏目坂を登って10分ほど歩いたところにあるアパートが、こむ10号の編集室となる。</p>
<br />
<p>ぼくたちの週末は、それからしばらくの間部屋の備品を揃えるのに費やされる。</p>
<p>広島の大学院に行っているTが、研究室で要らなくなったスチール棚を送ってくれた。扇風機は近所のディスカウントショップで調達した。照明器具は、Yが買ったばかりの新品を「デザインが気に入らないから」と提供してくれた。</p>
<br />
<p>やがて部屋は部屋らしくなり(Fは寝具一式も揃えようと言ったのだが、それは残りの二人が思いとどまらせた)、毎週末のようにぼくたちはその部屋に集まるようになる。</p>
<p>全員が怠惰なので、やってくるのは正午をとうに回った2時頃だ。三々五々、近所のモスバーガーあたりで買ったハンバーガーや何かを持参でやって来ては、雑談しながらランチタイムとなる。</p>
<p>食べ終わると、だいたい誰かが眠くなる。</p>
<br />
<p>起きるともう夕方だ(笑)。</p>
<p>「そろそろ帰るか」</p>
<p>と言いながら、Fが立ち上がる。</p>
<p>「そうだな」と言いながら、ぼくも立ち上がる。</p>
<p>一番まともなSが「おいおい」と言いながら、やっぱり立ち上がる。</p>
<br />
<p>そんな具合で、恐ろしく無駄な時間をぼくたちはその部屋で過ごしていた。</p>
<br />
<p>そう言えば、毎月発生する家賃などはどうしたのだろう。</p>
<p>これも確かFのアイデアで、月一口千円くらいで各地に散らばっているメンバーから徴収していたような気がする。</p>
<p>地方に住んでいるメンバーには、上京した時の宿にもなる(と言っても寝具はないのだが...)とか何とかデタラメを言って言いくるめた。</p>
<p>専用の銀行口座もつくった(これは当時一流銀行のスチャラカ社員だったFが引き受けた)。もっとも、実際には毎月決まった額が振り込まれることは少なく、大抵は言いだしっぺの3人が穴埋めをしていた。</p>
<br />
<p>半年ばかりもそんな怠惰な編集活動(?)を続けた後、さすがのぼくたちも昼寝の時間を短縮して、編集会議らしい会話をするようになる。</p>
<p>ちょうど原稿も各地からポツポツと集まりはじめていた。</p>
<br />
<p>Sとぼくがそれぞれワープロを持ち寄り、原稿をデータ化していく。</p>
<p>Fが横で寝そべってぼくらの作業を眺めながら、いろいろと注文をつける。</p>
<p>役割はいつもだいたい決まっていた。Fが突飛なアイデアを出し、それをぼくが面白がって具体化する。いちばんまともなSが定着させる。</p>
<br />
<p>そうしたかたちでいろんなアイデアが実行に移された。版型はそれまでのB5判をやめてA4判に。ページは縦ではなく横型にして、見開きごとに本文と写真を対向で入れていく。</p>
<br />
<p>写真の多くは、三人で早稲田から神楽坂へ歩きながら、高校時代写真部だったSにここだと思う場所を撮ってもらった。</p>
<p>雨の後のブランコ。夕空を鋭角に切り取る建築。廃屋のガスメータ…。</p>
<p>だから、「こむ」10号はSの写真作品集としても鑑賞できるようになっている。</p>
<br />
<p>表紙に使う紙は、9号と同様銀座の伊東屋に行って三人で調達して来る。本文は、早稲田近辺の安いコピー屋さんに行って三人でコピーする。</p>
<p>すべての作業を、毎週末のようにその部屋に集まっては三人でこなしていった。</p>
<br />
<p>ところで、こむ10号が完成してからも、ぼくたちはしばらくその部屋を借りたままにしていた。</p>
<p>しかし、10号完成から半年ばかり経った頃、ぼくは急に結婚することになる。</p>
<br />
<p>結婚には何かと金がかかる。ぼくたちはアパートを引き払うことを決め、その部屋に集まって相談した。</p>
<p>それぞれが立て替えていた金を精算し、備品もそれぞれ始末をつけた。スチール棚は同じアパートの住人に引き取ってもらうことになり、照明器具はぼくが引き取ることになる。扇風機は…忘れた。ちなみにこの時引き取った照明器具は、今も我が家の寝室を明るく照らしている。</p>
<br />
<p>こうして、「こむ」の隠れ家は消滅し、「こむ」ペーパー版の制作も10号をもって最後となる。</p>
<p>その後ホームページの流行とともにぼくたちはバーチャル版「こむ」をスタートするのだが、それはもう少し先のお話になる。</p>
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-13725147054028744092006-05-07T23:52:00.000+09:002015-02-05T19:32:37.070+09:00「こむ」創刊秘話<p>大学2年の夏。</p>
<br />
<p>東京ではじと~っと肌にまつわりついてくる暑さが、瀬戸内海沿岸のこの町では直接に肌を焼くように迫ってくる。</p>
<br />
<p>夏休みで帰省中のぼくは、FやTと県庁通りをぶらぶら歩いている。Tが言う。</p>
<blockquote>
<p>「例の話、どうなんだよ」</p>
</blockquote>
<blockquote>
<p>「え?」</p>
</blockquote>
<blockquote>
<p>「ほら、この間の手紙に書いただろう?ちょっとまじめに考えてくれよな」</p>
</blockquote>
<p>ああ、その話。</p>
<p>そう、その話は確かに東京で受け取った奴からの手紙の中に書いてあった。</p>
<p>高校時代ぼくが主宰者として作っていた雑誌を、また出さないかというお誘いだ。</p>
<p>だがぼくはどうも気乗りがしていない。</p>
<br />
<p>当時朝日新聞シンパだったぼくは、ある日の記事にあった「この頃若い世代の間でコミュニケーションが希薄になっている」という言葉にインスパイアされてしまった。</p>
<p>「何かしなきゃ」(笑)という訳で、早速「我らの世代のコミュニケーションを活性化する」ことを目的とした雑誌を創刊することにしたのだ。その名も「コミュニケーション」(笑)。</p>
<p>ではどうコミュニケーションを活性化させるかというと、そんな方法論はまるでなくただメンバーが好きなことを好き勝手に書くという、まったく今考えれば笑止千万な雑誌だった。</p>
<p>それでも、高校2年の秋からはじめて浪人時代まで、周囲のいろんな人を巻き込んで、全部で10号くらいは出しただろうか。</p>
<p>TもFもそのメンバーだった。</p>
<br />
<p>その雑誌をまた作ろうというのだが、ぼくはどうも気乗りがしない。</p>
<p>一度区切りをつけたものをもう1回引っ張り出してくるのはどうも、というのがその表向きの理由だ。</p>
<br />
<p>しかし後から考えてみれば、東京での大学生活の中で、ぼくはスタンスを見失っていたのかもしれない。</p>
<p>都会には、個性豊かな奴がいっぱいいた。とりわけ早稲田の文学部というところは、個性的(訳がわからない、とも言う)な奴らが集まっているところだった。</p>
<p>そんな中で、ぼくは溶けたバターのように輪郭をなくしていた。</p>
<blockquote>
<p>「俺じゃなくたっていいんじゃないの」</p>
</blockquote>
<p>渋るぼくに、今度はFが言う。</p>
<blockquote>
<p>「お前がやらんかったら、誰がやるんや」</p>
</blockquote>
<p>その言葉はちょっと効いた。</p>
<p>そうか。そこまで言ってくれるなら、もう1回何かやってみるかなと思ったのは、奴らと別れて家路に着いたときだ。</p>
<br />
<p>それから数日後、ぼくは「第1回編集会議」と称して、先輩から後輩まで帰省中のめぼしい人たちを呼び集める。どうせやるなら新しい形で、という訳だ。もちろん、FもTもその中にいる。場所は、2階に貸切りにできる広い部屋のある喫茶店だ(以後、その町にいる限り、編集会議は常にその店で行われることになる)。</p>
<br />
<p>そこでおおよその段取りをつけたぼくは東京に戻る。</p>
<p>そして秋のある日、ぼくは友人のYと高田馬場の喫茶店の一角に陣取っている。ぼくたちの前には、何やらいろんな文字を書き殴った1枚の紙が置いてある。</p>
<br />
<p>ぼくたちは新しい雑誌の名前を考えているところだ。</p>
<p>考えてみると、Yは後にも先にもぼくが作る雑誌のメンバーになったことはないのだが、何故彼がその時ぼくの前にいて、ぼくと一緒に新しい雑誌の名前を考えていたのか、今となってはよくわからない。</p>
<p>ともかく二人で思いつく単語を片っ端から紙の上に書きつけていく。レモンスカッシュとアイスティーをお代わりしながら。</p>
<p>書いた文字を眺めながら、さらに連想した単語を隙間に書き並べていく(これがブレーンストーミングという手法であるとは当時のぼくたちはまったく知らない)。</p>
<br />
<p>そのうちに、「こむ」という単語が、どちらからともなくポコッと出てくる。</p>
<p>何となくその言葉がぼくの脳細胞に入り込んでくる。どことなくとぼけた、意味があるようでいて、その実意味のまったくないその言葉が、いっぱい書き殴った言葉の中で何か特別なものに見えてくる。</p>
<br />
<p>そうして、それが新しい雑誌の名前となっていた。</p>
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-22012884535764185982004-06-17T00:52:00.001+09:002015-02-11T15:48:18.540+09:00夕暮レノ海デ、キミト出会ッタ夕暮レノ海、濡レタ肩、笑イ声...。<br />
<br />
そんな風に 遠い<br />
あの日 擦り切れたフィルムは廻りはじめる。<br />
カタカタと音をたて<br />
音をたてて <br />
あの日<br />
きみが何処からか盗んできた映写機は<br />
廻りはじめる。<br />
<br />
きみは俯いていた。<br />
<br />
長い髪に<br />
隠れるようにして。<br />
何故気づくのか。<br />
何故つまづくのか。見上げれば、<br />
空が<br />
割れて白い破片が舞う。<br />
自転車を押すきみの<br />
冷えきった 右手の甲を<br />
ぼくは見ている。<br />
粉雪。<br />
粉雪。きみの手が握る<br />
冷たいハンドルとそこに降り積もる<br />
雪の結晶を<br />
ぼくは見ていた。いまでも<br />
この胸に抱きよせれば<br />
甘えた目つきで唇を寄せるきみよ。<br />
ぼくたちは<br />
誰もいない都会の<br />
雑踏の中に 閉じこめられたのだ。お互いに<br />
<br />
ひとりぼっちで。<br />
<br />
夕暮レノ海デ、ボクタチハ出逢ッタ。<br />
<br />
蒼ざめた風が吹き渡る<br />
人影まばらなキャンパスを抜けて、ぼくたちは<br />
赤いレンガの<br />
建物を探しにいこう。<br />
深い色のセーターに身をつつみ、細い<br />
石段の道を登って。<br />
<br />
道の先には、<br />
何が見えるだろう?<br />
なつかしい 未知の光景を<br />
ぼくたちは見るだろう。<br />
明るい陽光が 昼下がりの中庭に降り注ぎ、<br />
民族衣装を着た娘らや、<br />
彼女らを<br />
軽々と抱きあげる男たちを<br />
ぼくたちは見る。<br />
子どもの頃に聞いた音楽にあわせ<br />
くるくると 踊る、<br />
くるくると...。<br />
<br />
ステップを踏んで。<br />
<br />
さあ 眠ろう。<br />
深い眠りを。<br />
すべてを思い出し、すべてを忘れるための。<br />
すべてを<br />
もういちど刻印するための<br />
深い眠りを。<br />
<br />
そして<br />
目覚めたら<br />
<br />
そこはもう すきとおった秋の朝。<br />
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-85595340161218184001997-02-09T01:19:00.001+09:002015-02-05T19:32:58.226+09:00北京の雪(Epilogue / Beijing, Jun.1996)<p>あれから何度か、香港や中国を訪れた。</p>
<p>そしてトヨタはようやく、中国における合弁会社の設立にこぎつけた。もっとも認可されたのはエンジンの合弁生産のみで、車両の製造権獲得については今後の課題ということになる。</p>
<p>ともあれ、将来のチャイナ市場獲得に向けての橋頭堡を築いたというところだ。</p>
<br />
<p>そしてぼくは、いま北京・京広新世界飯店の7階で朝食を摂っている。早くも3度目を迎えたシンポジウムの準備のために、ぼくはこの町を訪れていた。窓の外に見える北京の町はあいかわらずどんよりとした曇り空だ。灰色の街路を、土埃にまみれながらたくさんの車が行き来するのが見える。</p>
<p>それでも、灰色の街にも夏の風は吹くようだ。この町にも人のざわめきの聞こえる界隈があり、夕涼みにそぞろ歩くひとびとの姿があることを、今回の出張でぼくは知った。</p>
<br />
<p>これからどこへ行くのだろうか。</p>
<p>13億の人口を載せたこの超大国は、いままさに資本主義のパラノドライブに乗っかって離陸しようとしている。そしてぼくは、その翼が空に舞い上がり、何年か先に本格的な飛行をはじめる様を見守ってゆくのだろうか(改革開放の路線を現政権が維持するかぎり、それはそう何年も先ではないはずだ)。</p>
<p>だけれども、それはわからない。ぼくは決してこの国でのビジネスに賭けていこうと決めたわけではない。そしてぼくの歩いてゆく道がどちらにつづいているのか、少なくともそれがかつてのようにどこまでもつづく一本道ではなくなったことは確かだ。</p>
<br />
<p>(おわり)</p>
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-63967048022604909591997-02-08T01:17:00.001+09:002015-02-05T19:33:09.055+09:00北京の雪(Chapter7 / Nikko, Aug.1995)<blockquote>
<p>「レイチェルって女性の名前だっけ?」</p>
</blockquote>
<blockquote>
<p>「そうよ」</p>
</blockquote>
<blockquote>
<p>「男性にもレイチェルって名前ない?」</p>
</blockquote>
<blockquote>
<p>「レイチェルは女性だけじゃないかしら。聖書にラケルって女性が出てくるのよね。そこからとってるのよ」</p>
</blockquote>
<br />
<p>高原はもう秋の気配がしていた。</p>
<p>湖畔のこぎれいなレストランには、たくさんの赤とんぼが飛来していた。</p>
<p>ぼくたちは昼食をとりながら、五ヵ月になる娘をあやすためにかわりばんこに外へ出なければならなかった。建物の壁面にびっしりととまった赤とんぼや庭に咲いたオレンジ色の菅草の花を、ぼくは娘に見せてやっていた。</p>
<br />
<p>どういう訳か、ぼくはそのときまでレイチェル・カーソンを男性作家だと思っていたのだ。『沈黙の春』というその著作は知っていたし、本屋で文庫本を裏返し解説文を読んだりもしていた。だからおおよその内容は知っていたのだが、たぶんシリアスで告発的なその内容が、男性的なイメージをぼくの記憶に与えてしまったのかもしれない。</p>
<p>そのレストランは、室内のあちこちに詩集や写真集を置いていた。それも飾っているという風ではなく、誰が読んでもいいように無造作にテーブルの背後の棚の上に、それらは置かれていた。事実ぼくが手にしたその本も、いろんな人の手垢で汚れていた。</p>
<p>『センス・オブ・ワンダー』というレイチェル・カーソンの本の頁を開くと、</p>
<p>「雨の日は、森を歩きまわるのにはうってつけだと、かねてからわたしは思っていました」。</p>
<p>そんな書き出しではじまるある章が目に飛びこんできた。</p>
<p>『沈黙の春』のレイチェル・カーソンの印象から言って、そんな抒情的な文体に出会うとは期待していなかったのだ。ましてレイチェル・カーソンを男性だと思っていたぼくには、なおさらのことだった。</p>
<br />
<p>そのとき8月の高原のレストランの中で、目の前のあらゆる情景を超えてぼくの脳裏に甦ってきたのは、高校を卒業したばかりの頃にひとりで歩いた馬酔木(あせび)の森のささやきの小径のことだった。</p>
<p>1983年3月。奈良。</p>
<p>あのときは雨が降っていた。馬酔木の枝や葉を通して煙るように雨が降っていた。</p>
<p>そのときぼくはささやきの小径を探して歩いていたのだが、いま自分が歩いているのが、ささやきの小径だとは知らなかったのだ。</p>
<p>それからとても遠い場所に来たような気がした。</p>
<p>レストランの壁面にびっしりとまった赤とんぼを娘に見せてやりながら(レストランの中では、妻と妻の両親が食事をしながらぼくを待っていた)、ぼくは思っていた。</p>
<p>後悔というのではない。ぼくがよく知っていたはずのぼく自身からとても遠い場所に、いまのぼくはいるような気がした。それは夢を見ているようでいて、決して夢などではない紛れもない現在であることもぼくは知っていた。</p>
<br />
<p>秋になれば、また北京に行かなければならなかった。</p>
<p>ファミリーカーシンポジウムの第2弾として、中国部品産業育成のためのシンポジウムが10月にまた北京の同じ場所で行われることになっており、ぼくとぼくの会社はまたその仕事に首までどっぷりと浸かっていた。</p>
<p>ぼくの人生はいつのまにか、全く新しい世界を走りはじめたようだった。</p>
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-79679314417569055291997-02-07T01:15:00.002+09:002015-02-05T19:33:16.786+09:00北京の雪(Chapter6 / Shanghai, Nov.1994)<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhFrURjZoj98rCrcfpel0CAau7LeGlbj0K0F3T-hKTM04HHbgFxN2FE8EfnWasIGeLsjutJBZdqdsN-tzCgZ2OUmdW_dChuYSx749QjAySjHgSRXFofwGM9xvQlDpzP5gfMjftOLwk9Pr0/s1600/shanghai.jpg" imageanchor="1" style="clear:left; float:left;margin-right:1em; margin-bottom:1em"><img border="0" height="217" width="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhFrURjZoj98rCrcfpel0CAau7LeGlbj0K0F3T-hKTM04HHbgFxN2FE8EfnWasIGeLsjutJBZdqdsN-tzCgZ2OUmdW_dChuYSx749QjAySjHgSRXFofwGM9xvQlDpzP5gfMjftOLwk9Pr0/s320/shanghai.jpg" /></a></div><div style="clear: left"></div><br />
<p>それから上海でぼくらがすごした数日間は幻想のようだった。</p>
<br />
<p>第一百貨店のあたりでタクシーを下り、上海最大の繁華街南京東路を20分ばかり歩いて抜けると、黄浦江にぶつかるあたりにジャズバーで有名な和平飯店がある。かつてはキャセイホテルとして知られたその古いホテルで、ぼくとZは他の仲間たちと待ち合わせていた。</p>
<br />
<p>南京東路には、もはや90年代の東京にはない熱気があふれていた。</p>
<p>日本に比べればまだすこし暗いとはいえ明々と電気のついたショーウィンドウにはベネトンやシャネルの名前が(漢字で)並び、ぼくらと全く同じファッションに身を包んだ大勢の中国人が行き来していた。日曜日の銀座や新宿をはるかに超える人ごみとそこから発せられる喧騒からは、21世紀をリードする超大国の姿が透かし見えるようだった。</p>
<br />
<p>そして和平飯店。</p>
<p>大勢の西洋人と大勢の日本人と煙草の煙と、そして今世紀前半にさかのぼる歴史が、そのロビーには満ちていた。1時間ほど待ちぼうけを食らった後、ようやく出会えたぼくらは近くのレストランで食事をし、そして灯火のすっかり減った夜の上海の裏通りをそぞろ歩いた。</p>
<p>本当はO氏が和平飯店のジャズを聞きにいきたいという話だったのだが、何かの理由でぼくらはそこに入れなかったのだ。そんな訳で夜の上海を、錦江飯店最上階のバーから香格里拉酒店(シャングリラホテル)のカラオケスナックへとぼくらは流れた。</p>
<br />
<p>ぼくはその夜中国語の美しい歌をいくつか覚え、また同時に日本のポップスの多くが中国語に移し替えられてこの国で歌われていることを知った。</p>
<p>しかし何よりもぼくが驚かされたのは歌の中で聞く中国語の美しさだった。会話の中で聞くかぎりは、まったく騒々しい言語なのに、メロディに乗って歌われた瞬間それは哀調を帯びた表情豊かな響きに変わるのだ。</p>
<p>それは決して中国の歌に特有のどこか哀しいメロディのせいだけではないだろう。その証拠に、近藤真彦の「夕焼けの歌」の中国語バージョンをZが歌うとき、それは僕たち日本人の誰もを黙らせるほど美しい曲となるのだ(そして、彼女の歌もまたとてもうまかった)。</p>
<br />
<p>共産主義とヨーロッパ文明の残り香と日本軍の足跡と、そして改革開放路線のすさまじい経済発展の狭間を、Zの美しい歌声が流れ、異国の夜が更けていった。</p>
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-48175651375391647661997-02-06T01:14:00.001+09:002015-02-05T19:33:26.873+09:00北京の雪(Chapter5 / Tokorozawa, May.1993)<p>日曜日。車で公園に出かける。</p>
<p>航空公園駅から浦和所沢線へと折れる左折車線は、週末になると延々と車の行列がつづく。所沢市最大の航空記念公園をめざしてたくさんの人が押し寄せ、3つしかない無料駐車場はあっという間にいっぱいになってしまうからだ。</p>
<br />
<p>どうにか車を駐車場に押し込み、なだらかに傾斜した芝生の丘にたどり着く。</p>
<p>丘に寝ころんで、見るともなく人びとの姿を眺めていると、のんびりとした陽光の中で誰もがくつろいでいるのがわかる。若いカップルも、子供連れの若夫婦も、犬を連れた老夫婦も、それぞれがそれぞれの素顔の時間を心から楽しんでいるようだ。</p>
<br />
<p>その頃、ぼくたちは子供をつくるかどうかで意見を一致させられないでいた。「早く子供をつくりたい」という妻に対し、ぼくは何となく答えを渋っていたのだ。</p>
<p>結婚して半年がたったばかりだった。もうすこし2人の時間を楽しみたいという気持ちもあったが、それよりも自分が子供をもつという感覚が、もうひとつ馴染めなかった。</p>
<p>納得しないままに何となく「うん、いいよ」と言ってしまいたくなかったのだ。安易な気持ちで子供をもつということを決めてしまってはいけないような気がしていた。</p>
<br />
<p>…芝生の上で子供たちがボール遊びをしている。男の子も女の子もいる。</p>
<p>ふと、子供の頃のことを思い出す。それはほんの昨日のことのようですらある。</p>
<p>そう言えば、もう長いことキャッチボールをやっていない。小学生の頃には1日としてボールを握らない日はなかったのに。</p>
<p>不意にボールを受け止めるときのミットの感触を思い出す。親父から一度としてキャッチボールを教わらなかったぼくは、野球を覚えたのもずいぶん遅かった。そんな訳で仲間からすこしずつ遅れていたぼくは、どうすればバットでボールをミートできるかという感覚も、ついに完全に体得することのないまま少年時代を卒業したのだった。それでも野球は好きだった。毎日近所の路地や空き地で試合やその真似事をやっていた(人数はいつも足りなかったけれど)。</p>
<br />
<p>少し離れたところで若いお父さんが、よちよち歩きの子供を追いかけている。その向こうで、もう少し大きい子供にバットの振り方を教えているお父さんもいる。もし男の子が生まれたら、あんな風に一緒に野球をやるのもいいだろうな。</p>
<p>…誰かが言っていた。子供を育てるということは、自分の人生をもう一度生き直すことだと。</p>
<blockquote>
<p>「子供、作ろうか」</p>
</blockquote>
<p>気づいたとき、ぼくは隣りにいる妻に向かってそう口にしていた。</p>
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-73230330847464897871997-02-05T01:12:00.001+09:002015-02-05T19:33:35.775+09:00北京の雪(Chapter4 / Shanghai, Nov.1994)<p>北京からの国内線旅客機が、上海・虹橋(ホンチャオ)空港に着いたのは、夜10時を回った頃だった。</p>
<br />
<p>空港を滑り出たタクシーが上海市内に向かって走りだすと、開いた窓からふいに夜風が流れこんでくる。</p>
<p>それは心なしか華やいだ風だった。</p>
<p>つい数時間前まで雪の降る灰色の首都・北京にいたせいかもしれない。広い道路と生気のない人びと。身を切るような冷たい風。その昔遊牧民が大平原につくった首都は、昼間でも暗い色のカーテンに包まれているかのようだった。</p>
<br />
<p>11月とは言え、タクシーの窓から入ってくる上海の風は、北京に比べずっとやわらかい。どこからともなく人間のざわめきが聞こえてくるような匂いがした。</p>
<br />
<p>ファミリーカーシンポジウムが終わったあと、ぼくらはまっすぐ東京に帰らず上海に立ち寄った。翌年の上海モーターショーの会場を視察し、現地での協力会社を見つけるためだ。</p>
<p>メンバーはセールスプロモーション局のディレクターが2人。その年ぼくたちの会社に入ったばかりの上海生まれのチャイニーズガールZ。それに演出関係をやってもらっている協力会社のO氏。彼の香港子会社の香港人代表、それにぼくの6人だった。</p>
<p>陣容は立派だが、実際はそんなに仕事がある訳でもなく、ぼくらは比較的気楽な気分だった。</p>
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-34288070038571549571997-02-04T01:10:00.004+09:002015-02-05T19:33:46.576+09:00北京の雪(Chapter3 / Tokyo, Aug.1994)<p>ファミリーカーシンポジウムについてのオリエンテーションは、夏の暑い日、東京・飯田橋にあるトヨタ自動車東京本社の5F会議室で行われた。</p>
<p>それは、ちょうどぼくが妻の妊娠を知った頃だった。</p>
<br />
<p>実のところそれは、ぼくにとってもぼくの会社にとってもまったくはじめての種類の仕事だった。その辺の事情を理解してもらうためには、まず広告代理店の仕事と組織を説明しなければならないだろう。</p>
<br />
<p>一般に広告代理店では、営業が仕事を獲得すると、スタッフ部門の各部署から人材を集めてきて、プロジェクトチームを作る。</p>
<p>チームの中では、まずマーケティング部門が市場調査やそれを踏まえた戦略プランの立案を行う。それを受けて、媒体部門はメディアの買い付けを、クリエイティブ部門はTVCFや新聞広告などの表現制作を、SP(セールスプロモーション)部門はイベントや店頭販促活動などの実施計画の立案を行う。</p>
<p>今回のようなコンベンションの場合は、営業とSP局が軸になり、マーケティング部門とクリエイティブ部門は必要があればそれを支援するというレベルだ。したがって、マーケティングプランナーという立場にあるぼくは、大方針さえ決まればあとはお役御免だろうと割合かんたんに考えていた。</p>
<br />
<p>だが、はたしてこの仕事はそうはならなかった。</p>
<p>ぼくたちには一般向けのイベントやインナー向けの発表会に関する豊富な経験はあったが、外国の政府に対するプレゼンテーションなど請け負った経験があるものは誰もいなかった。そこからすべての混乱と試行錯誤がはじまった。</p>
<br />
<p>オリエンテーションの時点で本番まで3ヶ月ちょっと。切迫する時間と経験の乏しさから、ぼくらは通常の役割分担に関係なく、目の前に次々と現れるハードルをクリアしていかざるを得なくなっていった。</p>
<p>気がつくとぼくはトヨタの役員スピーチ用のスライド原稿を書いていたり、展示用映像のナレーション案をひねり出していたり、パネルのレイアウトに頭を悩ませたりしていた。</p>
<p>それは従来の仕事の仕方から言えばきわめて特殊なことだったし、タイトなスケジュールの中では非常にきつい仕事でもあった。仕事は毎日深夜までの作業となり、休日も急速に仕事で埋まるようになっていった。</p>
<p>それでもその仕事は非常に楽しく、充実感のある仕事でもあったのだ。もともとぼくは自分の手で何かを生み出すということが好きだったし、企画書だけを書き続けていたそれまでの仕事から見て、実際の作品を(たとえ一部であっても)自分の手で作っていけるというのはとても刺激的なことだった。</p>
<br />
<p>そうこうするうちにぼくは、現地まで行くはめになっていた。</p>
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-78766843582754368611997-02-03T01:09:00.001+09:002015-02-05T19:33:54.234+09:00北京の雪(Chapter2 / Tokorozawa, Mar.1995)<p>医者は最初から帝王切開にするつもりだった。逆子だったからだ。</p>
<p>だけどもその医者は、何故帝王切開にすべきなのか、それによってどんな危険が取り除かれるのか、そして逆にどんな危険があるのか、その可能性はどれくらいなのか、といったことをきちんと説明してくれた。</p>
<p>そのうえで、あなたたち自身が決断してくださいと言った。</p>
<br />
<p>ぼくたちは、帝王切開を選んだ。</p>
<p>そしてその手術の予定は、3月5日の予定だった。</p>
<p>ぼくは出張に出掛けるべきか出掛けないべきか悩んだ。手術予定がいつだろうと、兆候が現れたらすぐに切らなくてはならない。ぼくの出張と手術が重なってしまう可能性は十分にあった。</p>
<p>一方でその出張は、ぼく抜きでは考えられないものだった。その年の6月に行われる上海モーターショーの戦略案を、香港にあるトヨタ自動車のディストリビューターにプレゼンテーションしなければならなかったのだ。</p>
<p>ぼくは悩んだ末、日程を最小限に切り詰めたうえで、恐らくだいじょうぶだろうと考えて出張に出た。</p>
<br />
<p>芹奈が生まれたのは、香港に着いた日の深夜だった。</p>
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-54233639552695604531997-02-02T01:06:00.002+09:002015-02-04T20:33:43.507+09:00北京の雪(Chapter1 / Beijing, Nov.1994)<br />
<p>北京市内はいつのまにか雪が降りだしていた。</p>
<br />
<p>すでに暗くなったドライブウェイには一台もタクシーの姿はない。長い重そうなコートを着た中国人のドアボーイがダメだというように手を振る。</p>
<p>待っていても新しいタクシーが入ってくる気配はない。</p>
<p>背の高い白人の集団が回転ドアから出てくると、ドアボーイにひと言ふた言話しかける。ドアボーイがぼくにしたと同じように手を降ると、白人たちは肩をすくめバラバラとホテルの外へ駆け出していく。</p>
<p>ぼくは腕時計を見た。急いで北京市内のもうひとつのホテルまで行き、荷物を拾ってもう一度ここまで戻って来なくてはならない。</p>
<p>ホテルの外は暗く、そしてひどく寒そうだった。</p>
<br />
<p>1994年11月13日。</p>
<p>それはその冬北京市に降ったはじめての雪だった。そしてその雪は、翌日からはじまる一大イベントのために世界中から集まってきていた主要な自動車メーカーの関係者すべての頭上に、等しく降り積もろうとしていた。</p>
<p>中国政府は、国内自動車産業の保護育成の観点から外国自動車メーカーの参入を厳しく制限していた。一方で、地球上に残された最後のビッグマーケットを何としてでも手中にしようと、世界中の自動車メーカーが虎視眈々と参入機会をうかがっていた。</p>
<p>そしてこの年、中国政府はこれらの自動車メーカーを北京に呼び集め、将来の中国に相応しいファミリーカーについて提言させることを思いついた。よい提言を行ったメーカーにはチャンスが与えられるかもしれない。そんな思惑から、世界中の主要自動車メーカーにとって「ファミリーカー・シンポジウム」と名付けられたこのイベントは必ずくぐらなければならない関門のひとつとなっていた。</p>
<br />
<p>ぼくは、というよりぼくの会社は、そのシンポジウムの中でトヨタ自動車のプレゼンテーションと展示のすべてを請け負っていた。プランナーとしてその仕事にどっぷりつかることになったぼくは、数カ月にわたる準備期間の後、最後のリハーサルと本番を見届けるためにこの国に来ていた。</p>
<br />
<p>それにしても、この国では流しのタクシーというのは拾えるものなのだろうか。</p>
<p>ホテルに近い場所ではすでに何グループかの外国人たちが、タクシーをつかまえようと手を挙げている。ぼくは思い切って外の大通りへと出ていくことにした。</p>
<p>明らかに電力量の足りない首都のぼんやりした街灯が、決して多くはない車の流れを浮かび上がらせている。雪はぼたん雪となって、激しく降り出していた。</p>
<p>空車のタクシーを見つけて手を挙げると、赤いシャレードの車体がスーッとぼくの傍に滑り込んでくる。ぼくはメモ帳を取り出すと、「京広中心」と漢字で書いたページを指さした…。</p>
<br />
<br />
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-59718954731705798471997-02-01T01:04:00.001+09:002015-02-05T19:34:01.705+09:00北京の雪(Prologue / Hongkong, Mar.1995)<p>3月3日に生まれた赤ん坊は、女の子だった。</p>
<br />
<p>香港島。華美酒店 (The Wharney Hotel)。</p>
<p>真っ暗なホテルの部屋で、ふいに電話が鳴る。</p>
<p>深い眠りから急速に引き戻されながら、反射的に受話器をとると、お義母さんだった。カーテンから透けて見える空がまだ暗い。</p>
<blockquote>
<p>「午前0時12分、女の子無事出産しました。母子ともに元気ですのでご安心なさってください」</p>
</blockquote>
<p>お義母さんの声は少し緊張していた。日本から国際電話で掛けてきたのだ。</p>
<blockquote>
<p>「あ、本当ですか。どうもありがとうございます」。</p>
</blockquote>
<p>寝ぼけた頭を必死に覚醒させようとしながら、ぼくは答える。その努力はまったく報われなかったが、それでもからだ全体に安堵感が広がっていくのがはっきりわかった。</p>
<p>受話器を置くと、時計の針は朝の6時40分を指していた。起きだしてミーティングに向かう時間にはまだだいぶあった。</p>
<br />
<p>ベッドの上にもう一度大の字になりながら、ぼくは長かった10か月を思い出していた。</p>
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-29325018642738783461989-05-01T00:59:00.003+09:002015-02-05T19:34:10.165+09:00あさりバターの青春<p>青春はいつも、長い坂道のようだった。</p>
<br />
<p>汗ばんだ夕暮れ。いつもののれんをくぐれば、ロングヘアーがはじける。ぼくたちはあさりバターの鉢をつつきながら、ざわめきのなかでふとキスをしたりした。</p>
<br />
<p>窓の外はまだ明るい7月。なじみの顔が通り過ぎる学生街。</p>
<p>ぼくたちはとても自由だったが、とても未完成だった。そのころぼくは J.デリダも G.ドゥルーズも知るはずがなくて、毎日がどろどろに溶けたバターのように流れていった。</p>
<blockquote>
<p>「ねえ」</p>
</blockquote>
<blockquote>
<p>「・・・」</p>
</blockquote>
<blockquote>
<p>「あたし、きれいだと思う?」</p>
</blockquote>
<br />
<p> つげ義春が背景で、 カノンがBGM。うす汚れた駅ビルのエレベータの箱の中で、ぼくたちは抱き合った。</p>
<p>長い時間を食べたと思う。</p>
<p>長い時間が</p>
<p>ぼくたちを内側から溶かしていった。ここちよい天然痘のように、ぼくたちは形をなくしていった。</p>
<br />
<p>だけど</p>
<p>何故気づかなかったのか。</p>
<p>ガトーショコラとダージリンなんかより、ぼくたちのあさりバターのほうがよっぽど幸福に近かったこと。</p>
<p>ぼくはとても満足していたし、</p>
<p>きみは今日のことに夢中だった。</p>
<p>ぼくは遠い明日を見つめていたが、きみは何かにあこがれていた。</p>
<p>そして・・・</p>
<br />
<p>ぼくはある日ネクタイを締め、まあたらしいスーツを着てきみの部屋に行った。</p>
<p>きみは2年間のアメリカ留学に発ったあとだった。</p>
<br />
<blockquote>
<p>「ねえ、あたしと結婚したい?」</p>
</blockquote>
<br />
<p>いつも、そうだ。</p>
<p>過ぎてから気づく。</p>
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-4777642095290390971988-11-11T23:32:00.001+09:002015-02-11T15:47:17.043+09:00ゼロ視界/生/肯定めざめれば<br />
きょうも<br />
濃霧。一面に 広がる赤いしみ<br />
・・・<br />
<br />
旧友(とも)よ。<br />
<br />
誰も知らないあの日 ひっそりと旅立った旧友よ いまも<br />
聴いているか。<br />
サヨウナラと<br />
モウワスレルヨと<br />
呟いたぼくの声を。きみの背中に向けて 放たれたその声は<br />
遠ざかった後影に木霊して<br />
いまやっとぼくの耳に 戻ってきた それが<br />
<br />
今年の夏だ。<br />
<br />
(アテモナクボクハアルキマワッタ/ドコカニコシヲオロスベンチヲサガシテ)<br />
<br />
旧友よ。いまも<br />
怨んでいるか 冷たかったぼくを。ゴメンヨと<br />
ゴメンヨと<br />
謝ることはとてもたやすい。だが、<br />
それでこの霧が晴れるというのか ぼくたちはなにも見えない霧に向かって<br />
弾丸を乱射しつづけなくてすむというのか 旧友よ。<br />
<br />
ヒロバ ハ ケハイ ニ ミチテイル<br />
<br />
あの日もきょうも<br />
きっと明日も。<br />
霧の向こうにいる 不気味なそんざいに向かって ぼくたちは<br />
撃ちつづけずにはいられない。<br />
だからあの日<br />
霧の向こうから よろめくように赤い胸を押さえて現れたのがきみだったとしても それは<br />
ぼくのせいではなかった。<br />
きみのせいではなかった。ただ ぼくたちをつつむ<br />
霧がすべてであった。<br />
<br />
そして<br />
ぼくはわすれない。<br />
<br />
ぼくが女のからだを抱きよせながら<br />
帰ってきたあの日<br />
きみがぼくの部屋のまえで ぼくの帰りを待ちつづけていたあの日を。<br />
それも決してぼくのせいではなかった。だが、<br />
だが<br />
ぼくは今年の夏を知った。(ソレハザンコクナアカルサノナツダッタ)<br />
<br />
旧友よ。<br />
<br />
もどってきてくれるか。いまはじめて ぼくには<br />
きみの悲しみがわかるから。<br />
いまはじめてぼくにはきみが必要だから。<br />
きっと<br />
ぼくはまた同じ過ちをくりかえすだろう。<br />
きみもまた同じ過ちをくりかえすだろう。<br />
ぼくたちは それぞれの地下道をあるきつづけて<br />
永遠に旅をともにすることがないだろう。<br />
<br />
旧友よ。いま<br />
ぼくたちのすることは 悔いではない 倫理は一切ではない。誤解を恐れずにいうなら<br />
ぼくたちは生きねばならない。<br />
ただ 生きねばならない。濃霧のなかを。<br />
たったひとつ<br />
この霧を吹きはらう風があるとするなら<br />
それは前だけを見てあるいてゆくことだ。<br />
<br />
この生を肯定せよ。<br />
それがいっさいのはじまりだ。<br />
<br />
この生を肯定せよ。<br />
存在としてではなく 意志として<br />
<br />
この生を肯定せよ/ 旧友(とも)よ。<br />
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-87210289967654521811988-11-10T23:27:00.001+09:002015-02-11T15:48:33.194+09:00CHANT D'AUTOMN Ⅴ.アナーキー憶えているよ。<br />
<br />
なだらかな丘陵に 護られた<br />
あの村のことは。<br />
村人たちは哄笑し<br />
とても 優しい眼をしていた と。<br />
<br />
(そして霧がおとずれ<br />
すべてが散りぢりになった)<br />
<br />
憶えているよ。<br />
一人は死に<br />
一人は霧の中で 見失われ<br />
一人は 誰にも知られない旅にでた(皆んな さようならもなく)<br />
<br />
残されたぼくたちは<br />
浜辺の 風に吹かれながら<br />
いつまでも<br />
話しつづけた<br />
<br />
夏の終わりの一日。<br />
<h3 style="text-align: center">* * *</h3>
それから<br />
きみは 長い峡谷を<br />
さまよいつづけた。失われた<br />
あの村を<br />
捜すために。<br />
見上げれば いつも<br />
首が痛くなるほど 高いところに<br />
空はあった。それが灰色であるのか <br />
碧色であるのか <br />
知りえないほど 高いところに。<br />
<br />
だが あの村はあるか どこに<br />
あるか<br />
それはあるのか。もしも<br />
きみの顔が悲しげに <br />
横に振られねばならないのであるなら きみよ<br />
きみの背後に降りつもる<br />
白い紙片を破り棄てよ。<br />
<br />
秋はおとずれた<br />
<br />
きみはもう<br />
死人の眼をして 歩きだすときだ。<br />
<h3 style="text-align: center">* * *</h3>
見るがいい<br />
<br />
いま荒野に屹立する 都市の群れを。<br />
直線だけで成立する <br />
風景を。 (あれは俺がたてたのだ<br />
白濁したおまえの眼球に突き刺してやるために)<br />
<br />
視力を失った<br />
きみの眼は そのここちよい激痛の中で<br />
覚醒するだろう。<br />
生きたくもない きみの眼は<br />
その激痛の中で <br />
覚醒しつづけるだろう。<br />
<br />
一切は無価値であり 一切は影像である<br />
<br />
ただ 生きている そのことが<br />
ぼくたちにとって<br />
唯一の意味であるだろう。たとえば建築や<br />
建築を垂直にたどり<br />
不等辺多角形の蒼ざめた夕空よ。 <br />
ぼくの憎悪を癒すのは<br />
<br />
おまえだけだ。<br />RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1942652585836766010.post-79642078384832005051988-11-09T23:26:00.002+09:002015-02-11T15:48:44.520+09:00CHANT D'AUTOMN Ⅳ.海 風故郷(こきょう)。<br />
弱められた日射しの降る 故郷。<br />
<br />
・・・もう長いことぼくは 死んだようにあるいていた<br />
<br />
改札。<br />
バスがとまる ゆるやかに広場が傾斜している<br />
懐かしい光景よ<br />
顔のある雑踏よ。振り返れば<br />
いつも<br />
木洩れ陽の降る<br />
<br />
並木道。<br />
<br />
・・・風が渡る<br />
<br />
都会の表紙(カヴァー)につつまれた<br />
《堕落論》が<br />
頁を繰られてゆくセピアの日射しの中で。<br />
絶望と 破壊と合わされない視線 ああ<br />
ぼくが崩れてゆく ぼくに戻る。海風に呑まれて。<br />
<br />
・・・はしれ田園を<br />
<br />
程よい濃度の<br />
酸素の中を。<br />
<br />
ひとときの<br />
<br />
故郷(こきょう)。<br />
RYO NAKAGAWAhttp://www.blogger.com/profile/05887463633322366088noreply@blogger.com